2005年10月8日午前8時50分。
  マグニチュード7・7の揺れが北部山岳地帯を襲った。
  死者8万7千人、家を失った人350万人。
ひとつの国が蒙った被害としては近年まれに見る規模である。
半径100キロに及ぶ被災地のほとんどは山岳地帯。
狭い耕地を切り開きながら生きてきた農民。
バザールで品物を売って生計を立てる商人。
子どもや家族のことを切り盛りしてきた女たち。
将来を夢見ながら学校で学ぶ子どもら。

一瞬の震災は、そんな彼らの生活を根底から奪った。
     8万7千人の生。
     350万人のそれぞれの人生。
僕たちにできることは、彼らの声にちょっとだけ耳を傾けること。
自分と同時代に、彼らが存在していることを知ること。
そして、想像してみること。

アッラー・アクバル!

MR.モハメッド・バシャラット・カーン(30歳)
「地震のとき1階の食堂の掃除をしていました。そのときです、隣のサンガム・ホテルが大音響と共に崩れ始めたのは。ええ、逃げましたよ。でもすぐに土煙で何も見えなくなったので、しばらく道路に座り込んでいました」
 モハメッドさんはサンガム・ホテルの隣に建つアル・アッバス・ホテルのオーナー。私は地震の半年前にこのホテルに泊まったことがある。サンガム・ホテルは半壊し死者を出したが、アル・アッバス・ホテルは壁の一部が崩壊しただけで、怪我人も出なかった。

  

MS.シャブナム(22歳)
「わたしはこの公園のすぐ近くに住んでいました。このあたりは州政府関係の建物も多いところよ。家は倒壊しなかったけど、少し崩れたわ。そこに住むのは危険だから家を出て、ここを見つけたの。でもなんだか落ち着かないわ」  2歳になる一人娘を抱いているシャブナムさんが住んでいるのは公園にある円錐状の鳥小屋。金網が張られている。ここに2家族11人が暮らす。もう1ヵ月半になるが、家は危険なので戻れない。金網内にいた鳥がどうなったかは、聞くのを忘れた。

  

MR.マニール・フセイン(18歳)
「あの日は家の中にいたんです。ラマダン(断食月)だったから夜ずっと起きていたので朝はうとうとしていました。揺れがあったときすぐに収まると思っていたら、壁が崩れてベッドの上に落ちたのです。そのとき両足を折りました」  バラコットの街から6キロほど離れたサトバニ村の家での出来事だ。家族は幸いなことに外に出ていて無事だった。バラコットまで運ばれ、EDHI基金というNGOが設営しているテント診療所で治療を受けながら暮らしている。

  

MR.グラム・ラバニ・ミアン(60歳)
「この隣にあるのがつぶれてしまった家です。今はご覧のように畑にもらったテントを立てて、家族で寝泊りしています。でもうちは家族が多いから、窮屈で窮屈で。この前にもうひとつテントを張るために整地しているところです」  グラムさんは山の中腹にあるジャブリ村に住む。家族は無事だったが、テント生活は雨漏れするし狭いしで暮らしにくい。しかしそれよりも農民であるグラムさんは畑のことが地震のおかげで何もできていないのが気がかりなのだという。

  

MR.サイーダ・アキール・シャー(28歳)
「この娘の写真を見てあげてくれますか? どうです、かわいいでしょう、5歳なんですよ。ええ、この墓は娘のです。小学校に行っていて、そこで屋根の下敷きになってしまったのです。他の友だちも一緒に」  長女のモミナ・バハリ・サイーダちゃんは今年、小学校に上がったばかり。そこで被災してしまった。父のサイーダさんは経営していたPCO(電話取次ぎ所)もつぶれてしまい、毎日この墓地に来ては数時間を過ごしているのだという。

  

MR.イクバル・ハニフ・オラクザイ(44歳)
「この陸軍病院では、入院患者71名が亡くなりました。そして看護士などのスタッフの犠牲者は37名に達しました。震災直後から患者が続々と運ばれてきて、初めの1週間はもうほとんど眠ることもできませんでしたよ。建物をあとで部下に案内させますから」  5階建ての近代的な病院は一瞬にして瓦礫の山と化した。スタッフの中にはパニックとなって5階から飛び降りた者もいるという。医師の資格を持つこの病院の最高責任者である彼は、修羅場と化した病院で大佐としての指揮を振るった。

  

MR.サイード・シャー・ギラニ(故人35歳)
「遺体が今頃になって出てきたのです。はい、兄は運転手をしていたのですが、この近くを走行中に地震があって、土砂崩れが起きたのです。住んでいる村は実はここではなくてずっと山奥なのですが、道路が寸断されていてそこまで運べないのです」  亡くなった兄の墓をつくるそばで、未亡人となった女が幼い息子をあやしながら、作業を無表情に眺めていた。震災があってすでに2ヶ月近く。もう流れる涙は出尽くしてしまったようだった。何も知らない子どもが不憫だった。

  

MS.ルキャ・ビビ(45歳)
「あたしにここを去れっていうのですか! そんなことできるわけはないわ。家族を捨ててどこに行けというのかしら。ああパキスタンになんかへ来たのがまちがいだったのよ。できるなら土地もある故郷に帰してほしい」  ルキャ・ビビさんは1997年にインド側のカシミールから逃げてきた難民である。カシミールは1947年以来、その領土の帰属をめぐってインドとパキスタンが対立する紛争の舞台となってきた。震災で夫と孫3人を亡くしたが、遺体はまだ瓦礫の下に眠る。

  

MR.モハメッド・アセフ(18歳)
「ジェーラム川沿いのラシアン村から逃れてきました。このテントで2家族14人が暮らしています。こちらはお兄さんのアブドゥラ・ガーニですが、地震のショックで耳が聞こえなくなり、口もきけないのです。どこか病院を知りませんか?」  彼らが暮らすテントには、家財道具らしきものはほとんどなかった。床も地面がむき出しになっており、毛布の数も十分ではなく、夜は折り重なるようにして眠るのだという。インタビューの最中、兄は表情ひとつ変えなかった。

  

MS.ジャミラ・バイグン(故人35歳)
「この子のお母さんの墓なのですよ。彼の妹も一緒に眠っています。この子は震災があってから、誰とも口をきこうとはしません。学校もつぶれてしまったので、毎日この墓へ来ては花や折り紙を飾ったりしています」  サジャード・ロンくん(10歳)の代わりに答えてくれたのは、隣人のリアーズ・アハマッドさん(23歳)。サジャードくんは母親と6歳の妹アシア・ビビちゃんを亡くした。現在は父と7人の兄弟姉妹でテント暮らしである。

  

MS.ザイナブ・ビビ(10歳)
「ドスンと音がしたときには、目の前が真っ暗になってしまって、よく覚えてないの。土煙がもうもうと立ち込めていたし。床の上で泣きながら待っていたの。そしたら男の人が来て、抱えて連れ出されたわ。友だちのヒラちゃんは死んじゃった」  バラコットの街のはずれにある公立ガラット小学校。在校生の6割にあたる350名が死亡したといわれている。瓦礫の山を見ていると、よくもまあこんな状態で助かったものだと感心した。今回の地震の特徴のひとつは、学校にいた児童・生徒の犠牲者が多いこと。

  

MR.クルシード・アハマッド(故人18歳)
「…………」
墓石には、1987年生まれ。2005年10月8日、ここに眠る。
と書かれている。合掌。

  

MS.シュメーブ(生後5日目)
「うぎゃー、うぎゃー」  シュメーブちゃんは避難民用のテントの中で生まれた。彼女の実家はムザファラバード市から80キロ離れたアタマカン村。家は全壊し、シュメーブちゃんの父親アジャイブ・カーンさん(25歳)は死亡、身重の母親と家族はテント村へ逃れてきた。

  

MR.ハッジ・マラック・アマン(61歳)
「この写真はわたしの末息子です。彼チャン・ザーブはマディナ・バザールの理髪店で働いていて、そこの壁が崩れて死んだのです。家のほうはひびが入っただけで大丈夫だったのですが、気の毒なことをしました」  マラックさんは私が崩壊した学校跡を眺めているたときに話しかけてきた穏やかな老人だ。彼は誰かに息子のことを聞いてほしかったのか、こちらから問いかける前に話し始めた。これもアッラーの決めたことだから、と淡々としているのが印象的だった。

  

MS.アズーラ(11歳)
「骨が折れているらしいの、ドクターがそういってた。まだ少し痛いわ。学校で授業中に屋根が落ちてきたのよ。泣いていたらお父さんも泣きながら走ってきたわ。家に帰るとみんな泣いていた。次の日、歩いてムザファラバードに向かったのよ」  アズーラちゃんは川原に設置されたある政党が運営する避難民用キャンプで暮らしている。親戚がふたり亡くなったが、幸いなことに直接の家族は無事だった。しかし80キロ離れたアタマカン村へ帰る日はいつになるのだろうか。

  

MR.アブドゥラ・ワヒード・カーン(57歳)
「あなたは日本の人ですか? そうですか、日本からたくさん援助をいただいて感謝してます。でも日本は地震の先進国だと聞いております。少々の地震でも建物は倒れないそうですね。ぜひその技術をわが国にも援助してほしいものです」  アブドゥラさんはアザド・ジャンムーカシミール大学地質学部の教授。瓦礫と化した母校を背に、彼は地質学者らしい意見を述べた。アブドゥラさんも息子をひとり亡くし、妻は頭に大怪我をして入院中だという。

 

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