先の見通しの立たない避難民キャンプ。そんななかでも日常というものは存在する。行水する兄妹(ムザファラバード)。

1.カシミール再訪
 昨年秋に起きたパキスタン大地震のその後を取材すべく、ちょうど半年後にあたる2006年4月から5月にかけての約1ヶ月間、私は再び被災地を訪れました。以下はその報告となります。
 まずカシミールの首都ムザファラバードに行ってみました。宿に荷を置いてからすぐにニーラム川沿いにあった避難民キャンプに出かけてみました。ところが川原にずらりと並んでいたはずのテントがひとつもありません。それらを運営していた各NGOの本部もなくなっていました。
 道路沿いの狭い耕地にいくつかテントがあったので、そこの住人にたずねたところ、パキスタン政府が3月末をもってNGOに避難民キャンプを閉めるよう通告を出したとのことで、テント生活をしていた多くの難民は山村へ帰還していったとのことでした。いまだ積雪に覆われているような奥地に住む人たちは、川原を引き上げて陸地の狭い耕地などにテントを張り、雪解けを待ってから帰還するとのことでした。
 ムザファラバード市内では、大きな被害を受けたジャンムー・カシミール大学の再建が始まっていました。トルコとパキスタンのゼネコンが共同で工事を請け負っていました。パキスタン政府に届けられた世界各国からの支援金(ODA)がおそらく使われているのでしょう。
 旧市街のバザール周辺は古い建物が入り組んでいるため、瓦礫を片付けることが難しく、いまだ倒壊したままの姿をとどめている建物が多かった。しかしバザールの商店は9割以上が復旧あるいは復旧中で、人々の往来も格段に増えていました。いったんイスラマバードなどに避難していた住民が戻ってきたということです。
 旧市街の町並みを整備するために、日本のJICA(国際協力機構)が再建の工事を請け負うことが決定されたとのニュースが、ちょうど私が滞在中に流され、人々の大きな関心を呼んでいました。

ムザファラバード市街を遠望すると、山の斜面にはいまだに避難民のテントが点在するのがわかる。

ムザファラバードの旧市街は古い建物が立て込んでいるため、復旧はなかなかはかどらない。テントでの生活が日常と化している人は多い。
避難民キャンプ村で再開されたテント学校で学ぶ児童たち(ムザファラバード)。

2.ユーセフとの再会
 19歳のユーセフ・モハメッド君はラホールにあるパンジャブ大学で英語を専攻する大学生でした。カシミールで地震が起きたあと、家族の暮らす村へすぐ直行しましたが、そこで父と兄が死亡したことを知りました。崖崩れが起きて家族が住んでいた家屋も土地も失いました。
 母親や妹たちをムザファラバードに連れて行き、ある政党が運営する被災者を収容する避難民キャンプに身を寄せていたときに、私と知り合いました。そのとき彼は、「僕には将来はもうありません」「大学は辞めて家族を養うために働くしかありません」と暗い顔でいっていたことを思い出します。
 今回、再訪したときに彼のケータイに電話しましたが、つながりませんでした。村へ帰ったのか、それとも都会に出て働いているのだろうか、と思いましたが、滞在して数日目に私の宿にひょっこり顔を出しました。狭い地域なので、日本人のカメラマンが来ているという話はすぐに広まっていたようです。
 元気そうでした。彼は現在、ムザファラバードの知人宅に居候しながら、避難民キャンプの子どもたちに勉強を教えていました。月給はわずかに2500ルピー(約5000円)。いくつかのNGOをまわって、家を建てるのに必要なトタンなどの資材を少しずつ集めているそうです。近いうちに村にいる母や妹たちを呼び寄せて、自力で建てるつもりの小屋に住む算段をしていました。

3.ユーセフの村、スルリ・スッチャ村を訪問
 ユーセフは近いうちに母たちの様子を見に村へ行くとのことなので、同行させてもらうことにしました。スルリ・スッチャ村はムザファラバードから50キロほど離れています。ニーラム側沿いの道路を途中から離れて、北側の山岳地帯にかなり入ったところにその村はあります。
 一日に一本だけ、乗り合いのジープがこの村へ行っているので、私たちもそれに乗り込みました。3時間半ほどでスルリ・スッチャ村の下にあるバンディ・サイダンという村に着きました。ここから山道を1時間ほど歩くことになります。
 村は山の斜面に民家が点々とあるようなところで、狭い耕地が段々畑のようにあります。ふだんは小麦や野菜を育て、牛や山羊を飼う、そのような生活だそうです。ときおり山へ山菜を採りに行くこともあるとのことでした。
 民家は地震によって崩壊しているところもあれば、ほぼ無傷のところもあります。建っていた位置によって影響の受け方は異なるようです。ユーセフの家の残骸も見せてもらいました。家ごと土砂崩れに流されたので、建っていた位置よりも50メートルほど下にその残骸はありました。
 半壊の家には、その前に白いテントが何張りかたいてい張られています。テントは軍やNGOによって支給されたもの。そして全壊した家に住んでいた人は、親戚などを頼ってこうしたテントや空き部屋を間借りして暮らしていました。4月は本来ならば麦が青々としている時期ですが、種まきの時期である秋に被災しているため、どこの家でも作物は植えつけられていませんでした。ということは、来年の夏まで、収穫はまったくないことを意味します。
 私はユーセフに案内してもらって、村をまわりました。そのなかでも特に生活が困窮していると思われる家を重点的にまわってもらいました。彼はここで生まれ育っていますから、ほとんどすべての村人と知り合いで、そういった情報はすぐに得ることができます。
 一軒の家に40人ほどが寄り添って暮らしている家。家族を失った母親と子どもだけの家。そういった家を見てまわりました。また再開された小学校や、NGOの医療センターなども見学しました。

避難民キャンプ村で再開されたテント学校で学ぶ児童たち(ムザファラバード)。

4.多くの孤児の存在
 すぐに気づいたことがありました。それは、父親あるいは母親が亡くなるということは、イコール孤児が同時に発生してしまったという事実でした。逆に子どものみが亡くなったというケースもありましたが、私がショックを受けたのはやはり孤児の存在でした。特に父親が亡くなったケースだと、その家族は親戚などの誰かの庇護を受けないと生活していけないような感じでした。ふつうは両親を共に失った場合を孤児と呼びますが、地震による被災によって家屋が損傷を受けているケースあるいは土地そのものを失ったケースが多いことから、私はまとめて孤児と呼んでも差支えがないと思います。
 それで、そういった子どもたちの暮らしを見るために聞き取り調査を開始しました。そして実際にその家を訪れ、家庭環境などを見させていただきました。その結果、予想したとおりの状況が露呈しました。そういった家庭環境の子どもたちの多くは、再開された学校にも通っていない子が多かった。
 両親はまだまだ自分のことで精一杯で、特に土地や家を失った人はその再建のことで頭がいっぱいなのです。とても子どもの学校のことまで注意が行き届かないように見えました。あるいは両親がいまだ心神喪失状態から立ち直れておらず、一日じゅうテント周辺で暮らしているケースもありました。子どもたちも当然、こうした仮小屋のまわりでただ単に時が過ぎるのに身を任せているという感じでした。
 私は自分が取材しながら、こうした子どもたちはいったいどのくらいいるのだろうか、自分に何かできることはあるだろうか、と考えていました。

5.バラコットの街へ
 つづいてカシミールを出ると、最大の被害を出したといわれたバラコットの街も再訪しました。こちらは急ピッチで復興が進みつつありました。ブルドーザーがあちこちで瓦礫を崩しており、鉄屑商人たちがトラックで古物を回収していました。
 400人近い犠牲者を出したバラコット高校はすでにバラックの校舎が完成していました。中心部のバザールは復興景気とでも呼ぶべきすごい混雑です。あちこちにカレーを食べさせるレストランがオープンしていました。また商店も9割以上が再開され、屋根にはまた地震が起きてもよいように軽いトタン板が葺かれていました。
 この街へはイスラマバードから、山岳ガイドのサルワール氏と一緒に来ました。彼は地震直後に私が支援物資を持って被災地入りした際にやはり一緒に来てくれた人です。私は何度か一緒にカラコルムの山を歩くなど仕事を一緒にしたことがありますが、物腰の柔らかい信頼できる方です。
 彼にカシミールの村の孤児の話をすると、バラコットの奥のナラン谷も道路不通が長く続いていたので同じような状況ではないかということでしたので、そちらも見に行くことにしました。

バラコット郊外の避難民用テント村では、すぐそばに地震で亡くなった人の墓がつくられている。
地震で亡くなった父親の墓に
参る息子と祖母(バラコット)。

6.ナラン谷の奥の村へ
 バラコットからナラン谷をジープでさかのぼりながら、会う人ごとに情報を得ていきました。ひどい被害にあった村を探したのです。30キロほど行ったところにあるパラス村がどうやらこの近辺ではひどい被害を受けたところのようでした。
 パラス村には再開されてテントで授業を行っている小学校がありました。校長先生が近くに住んでいたので話を聞くことができました。住民の多くはバラコット付近の避難民キャンプに出ていたが、数週間ほど前に帰還してきたとのことです。ムザファラバードで聞いた話と合致していました。
 それぞれの家族は今、完全に倒壊してしまった自宅近くにテントを張って暮らしながら、少しずつ瓦礫を人力で除去しはじめているそうです。孤児の話をすると、この村にもそういった子どもは多数いるとのことで、校長先生が自ら近くの家族を案内してくださることになりました。
 そうしてみたところ、やはりカシミールの村と似たような状況であることがわかってきました。両親のどちらかを亡くした子どもの多くは、学校に通っていませんでした。またある男の子のケースですが、もう学校には行きたくないと答えた子もいました。ここの小学校も全壊していますので、おそらくそれがトラウマになっているものと思われます。
 いつのまにか夕刻になったので翌日また出直すことにして、そういった子どもを中心に調査することにしました。
 このパラス村は山の斜面に民家が並んでいて、はるか上のほうにも人が住んでいるとのことです。そこで翌日、歩いて山のうえのほうの家を訪ねて歩きました。学齢期の子どもの多くはやはり学校には通っていませんでした。母親が亡くなって父親がひとりで子どもたちの面倒を見ているケースでは、父親が家を掘り起こしているすぐ横で子どもたちは遊んでいました。おそらくこの父親にとっては、子どもを学校にやることなど現在の状況では考えられないことなのかもしれません。

地震から半年たってもテントでの避難暮らしを続ける人は多く、女たちは川のせせらぎで洗い物をしていた(バラコット郊外)。
半年たってもいまだ瓦礫のままのところは多い。かつての庭木であったバラが生命力たくましく花を咲かせていた(バラコット)。

7.NGOの設立へNGO詳細へ
 首都のイスラマバードに戻ってきて友人たちに被災地の状況を話すうちに、私の中で何かNGOのようなものをつくって、孤児のような困難な状況にある子どもたちに奨学金のような形で支援できないだろうかという思いが強くなってきました。
 友人たちもそれに対してみな賛成してくれました。これまでさまざまな形で(ポストカード購入など)私の個人的な支援に対して応援してくださった方が多数いらっしゃるので、その延長としてNGOを立ち上げることにしました。
 具体的なことはこれから詰めていきますが、サポート会員を募ってそれを資金にし、その額に応じて子どもたちに奨学金を支給したいと考えています。現在のところ小学生に限るつもりで(多額の資金があるわけではないので)、彼らが卒業するまで授与し続けるつもりでいます。
 パキスタンの小学校は5年制で、公立校は基本的には学費は無料ですが、制服や文房具など実際にお金がかかるのは事実です。また奨学金は実際に学校にかかる金額という意味で支給するのではなく、収入のない家族に支援を行うことにより、少しでも生活の安定に寄与することによって子どもを学校に行かせる心の余裕をとり戻してほしいという願いから、支給する考えです。
 応援してくださっている皆様方には、そのような状況を踏まえながら、今後ともよりいっそうのご支援・ご協力をお願いする次第です。

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