4.多くの孤児の存在
すぐに気づいたことがありました。それは、父親あるいは母親が亡くなるということは、イコール孤児が同時に発生してしまったという事実でした。逆に子どものみが亡くなったというケースもありましたが、私がショックを受けたのはやはり孤児の存在でした。特に父親が亡くなったケースだと、その家族は親戚などの誰かの庇護を受けないと生活していけないような感じでした。ふつうは両親を共に失った場合を孤児と呼びますが、地震による被災によって家屋が損傷を受けているケースあるいは土地そのものを失ったケースが多いことから、私はまとめて孤児と呼んでも差支えがないと思います。
それで、そういった子どもたちの暮らしを見るために聞き取り調査を開始しました。そして実際にその家を訪れ、家庭環境などを見させていただきました。その結果、予想したとおりの状況が露呈しました。そういった家庭環境の子どもたちの多くは、再開された学校にも通っていない子が多かった。
両親はまだまだ自分のことで精一杯で、特に土地や家を失った人はその再建のことで頭がいっぱいなのです。とても子どもの学校のことまで注意が行き届かないように見えました。あるいは両親がいまだ心神喪失状態から立ち直れておらず、一日じゅうテント周辺で暮らしているケースもありました。子どもたちも当然、こうした仮小屋のまわりでただ単に時が過ぎるのに身を任せているという感じでした。
私は自分が取材しながら、こうした子どもたちはいったいどのくらいいるのだろうか、自分に何かできることはあるだろうか、と考えていました。
5.バラコットの街へ
つづいてカシミールを出ると、最大の被害を出したといわれたバラコットの街も再訪しました。こちらは急ピッチで復興が進みつつありました。ブルドーザーがあちこちで瓦礫を崩しており、鉄屑商人たちがトラックで古物を回収していました。
400人近い犠牲者を出したバラコット高校はすでにバラックの校舎が完成していました。中心部のバザールは復興景気とでも呼ぶべきすごい混雑です。あちこちにカレーを食べさせるレストランがオープンしていました。また商店も9割以上が再開され、屋根にはまた地震が起きてもよいように軽いトタン板が葺かれていました。
この街へはイスラマバードから、山岳ガイドのサルワール氏と一緒に来ました。彼は地震直後に私が支援物資を持って被災地入りした際にやはり一緒に来てくれた人です。私は何度か一緒にカラコルムの山を歩くなど仕事を一緒にしたことがありますが、物腰の柔らかい信頼できる方です。
彼にカシミールの村の孤児の話をすると、バラコットの奥のナラン谷も道路不通が長く続いていたので同じような状況ではないかということでしたので、そちらも見に行くことにしました。