テントで授業中の小学生

【パキスタン被災地スタディ・ツアーの報告】

 この2006年12月に、パキスタン大地震の被災地を訪れた。僕としては、地震直後、昨年4月に続いて、3度目の訪問である。今回は、昨年立ち上げたNGOウジャマー・ジャパンの主催で、事務局の宮崎妙子さん(東京)他、地元の大分から3名、名古屋から1名の、僕を入れて計6名での訪問であった。それ以外に、パキスタンの友人SHER KHAN(通称シェール)もボランティアとして参加してくれることになり、総勢7名で、カシミールとNWFP(北西辺境州)バラコット市付近をまわった。
 今回の訪問の目的は、僕自身が7ヶ月ぶりに訪れる被災地の復興のようすを知るため、それとウジャマー・ジャパンによる孤児への第一回目の奨学金授与を行なうため、そして被災地へ初めて足を踏み入れる5名に実際の現場を見ていただくため、というたいへん欲張ったものであった。

2006年12月が暮れようとしてもいまだ川原のテントで
避難生活を送る人たち(ムザファラバード)
避難民生活中に生まれた赤ん坊
ある家族の楽しかった思い出
左:そのまま放置された崩れた道標
中上:炊き込みご飯(チャワール)
中下:今も瓦礫が残る
   バラコット女子高校
右:息子をなくした父親は立派な
  フレーム入りの写真を作成した。

【12月24日】
 日本の若者がクリスマス・イブということで浮き立っているまさにその日、車でアザド・カシミールの首都ムザファラバードに入った。昼食後、私が地震の取材中に知り合ったナイラさんという女性と合流し、さっそく大学グラウンド裏の避難民キャンプを見に行く。ナイラさんは先週まで米国系のNGOに職を得ていたが、そのNGOが撤退したので今は職探し中だった。それで2日間、通訳としてわれわれのツアーに同行してくれることになったのだ。全壊したアザド・カシミール大学の旧キャンパスはトルコ系の企業によるODA協力で、すでに建物の再建は終わっていた。その前にある大学グラウンドは震災直後から避難民が流入し、テントがひしめき合っていた。が、今回たずねたときは、きれいさっぱりと無人になっていた。近々、大学が再開するため、避難民は立ち去るよう当局から指示があったという。実はナイラさんとは一昨年ここで初めて会った。彼女の住んでいた家はムザファラバード市内にあるのだが、倒壊し、一家でここに避難していたのである。昨年4月に再訪したときもまだここに暮らしていたのだが、現在は祖母の家に一家で移り住んでいた。たくさんあった避難民テント群は、大学グラウンド裏の空き地に移転していた。ここには約40のテント、推定300人ほどがいまだに避難民暮らしをしていた。大学グラウンドにいたときはみんな、さまざまな団体からもらったテントに思い思いに暮らしていたが、今ではBESTという名のパキスタンのNGOがUNHCR(国連高等難民弁務官事務所)から資金協力を得て、この避難民キャンプを運営していた。丈夫な生地のテントや生活用品も支給され、また食事に困ることもないためか、住民には落ち着きが見られ、子どもたちにも笑顔が戻ってきているように思えた。家を再建するための資金も順次、政府から支給され始めているので、この人たちがふだんの生活に戻る日はそう遠くないと思う。しかし次に訪れたキャンプは悲惨だった。

避難テント内での炊事
(被災後1年3ヶ月)
野菜カレー(サブジー)
政府からの被災証明書。しかし給付金は
まだ受け取っていないという。

 かつてニーラム川沿いにあった最大規模の避難民キャンプはすでに4月に閉鎖されたことは以前に報告したとおりだが、川岸の斜面にも現実にはいまだ張り付くようにして難民キャンプがある。町に近い川べりだけで30ほどのテントがある。これらのテント群は正直言ってみすぼらしい。木綿地の白いテントは垢と汚れで真っ黒。ほうぼうが破けている。地面に藁を敷いて寝ている家族もある。彼らの服も雑巾のように真っ黒。子どもたちの髪の毛は、もう何ヶ月も洗っていないかのようにボサボサ。裸足の子もいる。トイレはない。さきほどのBESTのキャンプとは雲泥の差だ。この人たちの多くは、ニーラム沿いの山奥にある村から出てきた人。家も土地も土砂崩れなどで失った人たちだ。どうしてNGOやUNが管理・保護しているキャンプに行かないのかと聞くと、「すでに入っている人たちが見知らぬ土地からの自分たちが混ざることを嫌って、拒絶するのだ」との返事。開いた口がふさがらない。その話の真偽は知る由もないが、彼らがこうして危険で不衛生な場所で難民生活を強いられているのはまぎれもない事実。「あなたたち外国人なのだったら、NGOを連れてきてくれ」といわれた。僕たちもNGOなのだが……という言葉が出かけたが、現実に規模が小さすぎて避難民キャンプを運営することなどとうてい無理な話。思わず口をつぐむしかできない情けなさ。それにしてもこのキャンプは、街の中心部から歩いてもたいしてかからない位置にあるのに、パキスタン政府はいったい何をしているのだ、と怒りがわいてくる。地震が起きてすでに1年と3ヶ月。日本でもしこんなことが起きたら、たいへんな騒動になるだろう。実際、こうした避難民キャンプで目にする外部の人といえば、NGO関係者か国連関係者。パキスタンの政府筋の人、行政関係者には、ついぞ会ったことがない。震災直後は軍の人も多数動いていたが、今はほとんど見かけなくなった。それと同時にショックなことがある。被災者同士が助け合わないという事実。実はそのことについては、これまでの取材でも薄々感じていた。カシミールの人たちはどうして自分たちで被災者に手を差し伸べないのだろうか、と。村人が互いに罵り合っている現場も目撃したことがある。最初は単に、被災直後で、気持ちに余裕がないためだと思っていた。しかし1年以上たって、実際にこの難民キャンプの人たちの話を聞くと、それは違うんじゃないかと思い始めた。僕なりに考察した解釈は、こうだ。ご存知のようにカシミールは印パ間の領土争いのため紛争が続いている。そして両国に2つに分断されてしまっている。朝鮮半島と似たような状態なのである。印パが互いに情報合戦を繰り広げていることは周知の事実。わかりやすくいえば、互いにスパイを送り込んでいる。地震が起きるまでは、実はこの地への外国人の入域は厳しく制限されていた。僕は「合法的に」一度入ったことがあるが、ジャーナリストビザの取得まで4ヶ月も待たされ、当地では護衛という名の監視が4名も24時間体制で僕に張り付き、まともに取材などできなかった。もう一度は「非合法に」入ろうとしたが、検問で拘束されて追い返された。カシミールは印パの独立後、60年近くこのような監視体制の下に置かれてきたのである。住民が他人を信用できなくなったのも無理はないと思う。カシミールという国(地域)の長い間の地勢的なポジションもそうした住民の心性の形成に輪をかけたのではないか。カシミールはずっと、大インドや中国といった大国のパワーバランスに翻弄されながら生き抜いてきた。カシミール商人といえば「悪どい商売をする」という意味の代名詞だ。他国に翻弄されるなかを、嘘をついたり、欺いたりしながら生きてきた民族である。それは今も続いている。他人を信用しない。信じられるのは家族とカネだけ。そういう民族性を育んできたのではないかと思う。もちろんこれは一般論であって、ひとりひとりの性格を表すものではないことは書き記しておきたいが、僕はパキスタンに住む他民族の人と比べると確かにそういう傾向は強いかなと思う。僕だけでなく、他のパキスタン人も似たようなことを指摘するから、ある程度は真実だろう。地震はそういった問題をも、鋭く容赦なくえぐりだしてしまったのかもしれない。ともかく、この悲惨なキャンプのようすには参加者5名ともかなりショックを受けられたのではないだろうか。

カシミールの伝統音楽家
モハマッド・スバハン氏
スタディツアー参加者との記念撮影

 夕食後は、口直しというわけではないが、昨年の訪問時に知遇を得たカシミールを代表する音楽家モハマッド・スバハン氏の家をみなで訪ねた。日本からのNGOの人たちを連れてくるといったら、演奏してくれると約束してくれていたので。前回は僕ひとりのために演奏してくれ、大感激だった。スバハン氏は以前に招かれて日本に演奏旅行に行ったことがあり、大の日本贔屓なのである。すばらしい演奏の感激はぜひみんなで分かち合いたいと思っていた。奥さんの煎れてくれたおいしいサバス・チャイ(緑茶)をいただきながら、応接間でのミニ・コンサート。ラバブと呼ばれる弦楽器は日本の琴の系譜を引く楽器。スバハンさんのごつごつした指からは想像できない繊細で少し物悲しげな音色が身体中に染み渡ってゆく。特に望郷の歌にはジーンとくるものがあった。歌の意味はわからなくても、思いは音色で伝わってきた。実はスバハンさんはパキスタン生まれではない。分断されたカシミールの向こう側、インド・カシミールで生まれた。1965年に危険をおかして国境線(正確には停戦ライン)を越え、パキスタン側に亡命してきた。まだ二十歳そこそこだった。そのとき地雷を踏み、現在でも左足が少し不自由だ。一緒に逃げてきたのが今の奥さん。ムザファラバードで結婚した。こう聞くとロマンスの逃避行という感じだが、パキスタン側に逃げてきた理由については多くを語ろうとはしない。政治的なことを語るのは依然としてタブーなのである。ムザファラバードではラジオ番組にレギュラー出演することによって生計を立ててきた。が、生活は悠々自適というわけではない。芸術家というものはどの世界でも食べていくのが難しい。60歳を目前にして、スバハンさんはインド・カシミールへの望郷の思いを断ちがたく、パキスタン政府に訪問の申請をすでに行なった。地震の少し前から印パ間の関係融和が進み、地震を契機としてムザファラバードとスリナガルを結ぶバスの運行が始まったからである。向こう側にはまだ兄弟が健在だという。生きているうちに一目会いたいと思うのは当然だろう。ところがパキスタン政府からは許可が出ないという。その理由は「あなたがインド側に行ったら、国を捨てた裏切り者のあなたの命が危ない。撃たれてもおかしくない。だからパキスタン政府としては行かせるわけにはいかない」というものらしい。だが、これは政府の本音ではないだろう。そういうところにカシミール人を理解することやこの地方に関わっていくことの困難さが現れていると思う。カシミールの人から本音を聞きだすのは容易なことではない。地震の支援が滞っている原因のひとつは、まちがいなく政治や歴史にある。

山の村の小学校の庭にある墓
スルリ・スッチャ村の子どもたち

【12月25日】
 いよいよ山の村、スルリ・スッチャ村へ入る。昨日ようやく合流できたユーセフ君の出身村である。ユーセフ君のことはHP上でもたびたび報告してきたが、震災直後に知り合った当時大学院生だった避難民で、父と兄を地震で亡くし、現在では村にいる母や妹を呼び寄せるためにムザファラバードで単身、その資金作りのために働いている。ユーセフは今回は案内役と通訳を兼ねて同行してくれることになった。ジープで彼が今住んでいるところまで迎えに行く。ユーセフは、ブロックを積み上げただけの6畳ほどの小屋を月1000ルピーで借りてひとりで暮らしている。天井はないので、布を縫い合わせて覆っている。すぐ隣に住んでいる親戚に頼んでチャイをいれてくれた。彼の目下の夢は、早く資金をためて土地を借り、そこに家族4人が住める家を建てること。カラチの従兄弟が協力してくれてすでに土地の目算はついている。村では母親が彼が呼び寄せてくれるのを首を長くして待っているという。というのは、ユーセフの家は土砂崩れにあって土地もろとも流されて失ってしまったため、母親と妹は親戚の畑の一角を借りて粗末な借り小屋を建てて暮らしているだ。遠慮しながら暮らしている母親が不憫でならないと彼は言う。朝のうちに出発するも、ニーラム川沿いの道はスピードは出せないので、約50キロ離れたその村に着いたのはもう昼だった。村まであと少しのところがまだ通行できず、難所の向こう側で待ち構えていたジープに乗り換え、荷台にみんな立ったままで村へ入った。ユーセフが10年間教わったという村の小学校の先生に協力してもらいながら、親を亡くした孤児とその保護者を集めてもらい、小雨が降るなかさっそく面接調査と奨学金の授与を行なう。奨学金の額はシェールたちと相談の結果、当初の5000ルピーではなく、2500ルピー(約5000円)を支給することに決めた。ちなみにパキスタンの物価がどのようなものかというと、ユーセフは現在、午前中は高校で教師の仕事をし、午後は商社で事務の仕事しているが、あわせて1ヶ月の収入が5,6000ルピー程度。基本的に公立小学校の学費は無料で、教科書やノート類は自分で払うというもの。村は都市部に比べてそんなにお金がかからないことから、年間2500ルピー程度の額が妥当だろうということになった。面接調査を進めていくと、いろいろな孤児のパターンがあるのがわかってくる。両親を失って、親戚の人が面倒を見ているケース。母親は健在だが、再婚するために子どもを親や兄弟に預けているケース。12歳だけど、小学校2年生の男の子。スルリ・スッチャ村は典型的なカシミール山岳地方の村で、急な斜面に段々畑があり、産業は農業と牧畜。男の多くは街へ出稼ぎに行っている。ドバイなどの外国に出ているケースも珍しくない。子どもたちはシャイで、直接話しかけたり問いかけても、からだを捩じらせて恥ずかしがり、答えないことが多い。学校のことや将来の夢などについての質問にはほとんど答えない。ユーセフはこの村の出身なため、被災した家族の状況については彼が比較的よく把握している。ある程度、信頼もできる。しかし実際に奨学金の支給を始めると、それまで遠巻きに見ていた人たちまでが子どもをつれて押し寄せてきて、口々にこの子も親を亡くしたと主張する。子どもに話しかけると、先に代わりに大人が答える。誰と暮らしているのか、家族は何人かというようなことを個別にたずねると、答えが食い違っていたりもする。100パーセント信用はできない。お金を見ると、人の心は変わりやすい。お金をもらうために、生活するのがたいへんであると嘘をついたり大げさに言ったりしてアピールする人が出てきても不思議はないと思う。何度も何度もこちらが納得するまで問いかけ、正確な答えを引き出す必要がある。たくさんの方からのサポート会費や義援金を預かっているので、1円たりとも無駄な出費はしたくない。聞き取り調査の結果、奨学金の授与が必要なことが確実になった時点で、生活がたいへんなことがはっきりした時点で、はじめて奨学金を保護者に手渡す。別に「ありがとう」という言葉を期待しているわけではないのだが、彼らの多くが無言のまま受け取っていくのが、どうにもむなしい。自分がこういう形で一方的な支援を行うことに、おおいに疑問を感じる。このお金が子どもたちを学校に向かわせ、勉強を続けさせる助けになるのか、まるで手ごたえを感じることはできない。保護者の飲食費に使われてしまうかもしれない。家の再建の資金に組み込まれてしまうのかもしれない。奨学金を渡すにしても、何か他の方法があるのではないだろうか。奨学金を必要としているもっとたいへんな境遇の子どもたちがいるのではないだろうか。頭の中は疑問符がぐるぐるとまわり続ける。地震によって崩壊した家の多くはすでに瓦礫が片付けられていた。その跡地には、再建のための土台がコンクリートでつくられている。しかしどの家も、同じような土台だけがつくられ、その後放置されているのが気になっていたのだが、シェールがこの疑問に答えてくれた。現在、政府から、立替のための資金が予定の半額供与されているのだが、残りの半額が支給されるためには、しっかりした土台をつくって家主がそれと一緒に写真に写り、それを役場に提出する必要があるらしい。カシミール人のこうしたその場限りの対応を見ていると、奨学金の使途がますますあやふやなものに思えてくる。15人ほどの孤児への奨学金授与が終わり、時計を見ると15時をとうにまわっている。帰り道も長いので、早くこの村を出る必要がある。ユーセフのお母さんが昼食を用意してくれていたので、手早くいただいたあと、宮崎さんが支援者から託されてきた手編みの帽子や手袋を子どもたちに配り、ジープが待つ場所まで徒歩で降りる。車に乗り込むと、どっと疲れが出て、ムザファラバードに着くまで寝入ってしまった。夕食後、ナイラさんがぜひ家に来てほしいという。カシミールにかぎらず、パキスタンでは、お客を家に招いてもてなすのは、彼らの文化である。義務といってもよいかもしれない。それほど、彼らはお客をもてなすことに重きを置く。特にわれわれが外国人だからなおさらである。シェールやユーセフは車で待っているという。外国人を案内しているからといって、パキスタン女性の家に行くことはいろいろと誤解を招いてしまうのだ。イスラムでは、男女の区別は厳格である。こういう場合、僕は外国人だから「治外法権」扱いとなる。まさに外国人特権である。ナイラさんの家は損壊が激しかったため、すでに取り壊し、隣接する祖母の家に母親や姉妹、兄弟ら、親戚らと暮らしている。応接間に案内されると、女たちが次々に現れた。今回のスタディ・ツアーのメンバーは僕以外は全員が女性。家の人たちは心から日本の賓客を歓待してくれた。本当にうれしそうである。女性は基本的に家の中にいる時間が長いから、またイスラムの習慣上、女性が外国人のお客を呼ぶことはあまり考えられない。われわれはまさに珍客といったところだろう。ナイラが写真アルバムを出してきて、家族や友人たちのことをいろいろと説明してくれた。僕は両国の女性たちの中で「紅一点」ならぬ「黒一点」状態。日本ならばありえないシチュエーションに、イアワセいっぱい状態であった。いつまでもここにいたい気分だったが、シェールたちを待たせてあるので名残を惜しみながら車に戻り、宿へ帰った。

奨学金授与の対象の
孤児たち
(スルリ・スッチャ村)
通訳のナイラさん
通訳のユーセフ君
カシミールのナン
ナイラさんの家にて記念撮影
ムザファラバードの
マディナ・バザールにて
【12月26日】
 メンバーにはせっかくはるばるとカシミールまで来ていただいているので、午前中はバザールを見学に行くことにした。マディナ・バザールというごちゃごちゃした雰囲気のバザールが中心部にある。車は入れないので、歩いてまわる。お茶や布など特産品のお土産を買ったり、雑貨屋を冷やかしたり。あいにくの雨模様だったが、1時間ほどぶらぶら歩きを楽しんだ。ここから山越えのルートを取り、カシミール州からもうひとつの被災地である北西辺境州のバラコット市めざして進む。このルートは僕も初めて通過することになる。途中、土石流によって村がなかば埋もれている場所を通過する。押し寄せてきた土砂によって、建物や立ち木が半ば埋もれてしまっており、地震の被害が揺れによる建物の倒壊だけでないことをあらためて知らせてくれる。昼過ぎにバラコット市に到着。バラコットはもともとパキスタン人の旅行者によって栄えた観光地である。ここを起点にして、山奥のナラン・カガン谷へ入っていくと、美しい湖など風光明媚な場所があるからだ。新婚旅行先としても有名なところであった。そのためホテルも数多く営業していたが、地震でほとんどの建物は崩壊してしまった。外見はだからカシミールのムザファラバードよりも被害状況がわかりやすい。日本をはじめ各国の報道陣が地震の取材のためにこのエリアに入ったとき、ほとんどのメディアはこの街の崩壊した建物や瓦礫を放映した。すでに中心部のバザールは建物が再建されていたが、平屋のブロックづくりで、屋根はすべてトタン板を使用している。これならまた地震が来ても、人的被害は少なくなるだろうという配慮からだと思う。ところで、パキスタン政府は、次にまた大きな地震が来るだろうという理由で、このバラコットの街を廃止して、近くにニュー・バラコット市なる新しい街をつくる計画をぶち上げている。候補地はここからわずか20キロほど離れた場所。その話しを地元の人にすると「私たちが移住することなど考えられない! 祖先からの土地だもの」という返事が返ってくる。それにだいたい20キロほどしか離れていないから、ここが危険でそちらが危険ではないという説得力に乏しいと思う。噂で聞こえてくるのは、移転計画をめぐっての政治家の利権争い。どこの国も同じだなあ、と思わずうなづいてしまうのであった。バラコットからナラン・カガン谷のほうへジープ道路が延びている。目指すパラス村はここから25キロほどのところにある。昨年の4月にここを訪れたのは、周辺で聞き込み調査をした結果、パラス村付近が最も大きな被害を受けたと聞いたからである。雨模様のため、道路をはしっていると、急な斜面から石や砂がぽろぽろと落ち始めている。パキスタンの山岳部はどこもそうだが、渓谷に沿って道が拓かれているのだが、何百、何千メートルというものすごい崖なので、土砂崩れが日常的に頻発するのである。土砂がたまったデブリがいくつも出てくる。ドライバーがそういった危険箇所の前に来ると、車を止めて、じっと斜面の上の様子をうかがう。ぱらぱらと土砂が落ちているので、その間隙を縫って車を走らせないと、もし万一つかまってしまったら、眼下の数百メートル下の川に車もろとも転落してしまうからだ。そういう場所に、村人たちは暮らしているのである。そして地震の復興支援が最もあとまわしになるのは、そういうところに住む人たちなのである。政治家も行政の人もこんなところには視察にすら訪れない。彼らが顔を出すのは、バラコットなどの大きな街だけである。道が悪いので、パラス村に着いたのは予定よりかなり遅かった。これから奨学金の授与を行なうのは、時間的に無理がある。そこで、学校は休みだったのだが、村に住む小学校の先生を呼んできてもらい、孤児になった子どもたちへの奨学金を渡すので該当する人たちを保護者同伴で集めておいてほしいむねをお願いする。快く了解してくれたので、帰り道の土砂崩れが心配だったので、早々と引き返すことにした。
現在もテント暮らしを強いられている女性(バラコット)
バラコットの鳥瞰(2006年12月)。仮設住宅とトタン屋根が増えたのがわかる。
UNHCR提供のテント前の姉弟
バラコットのバザールは
賑わいを取り戻していた
【12月27日】
 バラコットのテントで授業を再開している小学校を見学に行く。ここは私立学校で、コーラン聖典の読み書きの授業なども行なわれていた。ふいの来訪者にもかかわらず、授業の様子を見学させていただいた。今回のスタディツアーの参加者のうち2名は現役の中・高の教師。やはり専門ということもあって熱心に見学され、また子どもたちと積極的に交わろうとされていた。すぐ隣には瓦礫となった学校の校舎がそのまま残されている。崩れた黒板やトイレもそのまま残っていた。ここでは幸いなことに死者は出なかったという。そのためか、先生も生徒も表情はけっして暗くはなく、何か希望が見えるようだった。しかし副校長の話によれば、両親あるいはどちらか片親を失った子どもは相当数に登るという。その子どもたちのリストを作成してくれることになった。パラス村の帰りに受け取ることにする。パラス村に着くと、大勢の村人が私たちの到着を待ちかねていた。現在、小学校は再建中で、瓦礫の校舎の脇に木造の建物が2割ほどできていた。臨時で授業が行なわれているユニセフ提供のテントに入り、机と椅子を用意してもらって、孤児と同伴の保護者からひとりひとり家庭の事情や子どもの学校のこと、家族構成、震災の被害状況などを聞き取り調査する。親を亡くした子どもという点を最重視したのだが、なかには両親が再婚して現在はふつうの家庭になっている子どもが連れてこられたり、高校生で親を亡くした子どもが来たりと、当方の奨学金授与の趣旨とは外れた人たちも混じっており、そういう方たちにはお引取り願った。時間はかかるが、やはりひとりひとり実際に面接調査するというウジャマー・ジャパンの方針は、間違っていないと思った。それと大事なことは、学校の先生という第3者に中間に入っていただいたこと。現金を目の前にすると人間が変わってしまうのは洋の東西にかかわりない。嘘をついたり、自分に都合のよいように物語を作ってしまうことは十分に考えられること。少なくとも、先生が立ち会ってくれると、親を亡くしたという点だけは確認できる。ここパラス村の子どもたちの表情は、カシミールのスルリ・スッチャ村の子どもとはずいぶんと異なる。緊張しているもののしっかりと自分の言葉で受け答えできる子どもも多く、僕はそういう子を見るとうれしくなった。将来の夢を聞くと、たいていは恥ずかしがってしまうが、それでも小さな声で「ドクター」とか「教師」とか答える子どもを見ていると、こちらまで大きな希望がわいてくる。やっぱり子どもって、宝物なんだなあ、村の将来はこういう子どもたちにかかっているんだなあ、と目の前がぱっと明るくなるような気がした。そして自分たちの行為、奨学金を授与するという行動は、全面的に肯定することはできないものの、方向性は間違っていないことを確信した。パラス村の子どもの表情がカシミールとぜんぜん違う点は私だけの印象ではなかったようで、参加者やシェールも同じような感想を述べていた。結局、この日は16人に奨学金を授与することができた。地震のような自然災害によって被害を蒙るのは、それはカミサマの意思であるから仕方がない、復興も時間をかけてなるようになっていく、という考え方の人が日本には多いような気がする。たしかに家がなくなり、親を亡くしても、子どもは生きてゆくだろう。やがて彼らも結婚したり、親になったり、都会へ出稼ぎにいくことだろう。そのころにはすっかり地震の記憶もあいまいになり、それでも村は存続していくことだろう。だからそういう人たちのことを支援するといっても、何千人といる孤児の面倒を僕がすべて見ることができるわけではないし、何十年、何百年とたったら僕たちの行為そのものが忘却の彼方になるだろう。むなしさがないわけではない。でも人生というのもむなしさとの戦いなのだから、同じことなのだ。だったら、テレビの前に座ってああだこうだと口だけ動かすよりは、実際にからだを使って動くほうを選びたいと思う。それに親がいないからとか、経済的な理由だけで学校で学ぶことができず、そのためにその子の将来の可能性を摘み取ってしまうとしたら悲しすぎる。そんなわけで今回は合計31人の小学生へ奨学金を届けることができた。これもサポート会員になってくれた方々や義援金を寄せてくださった方、ポストカードを購入してくれた人たちの無数の人たちの協力のおかげだと思う。そして今回、実際にこうして被災地の現場へ足を運んでいただいた5名の方々には、本当に頭が下がる思いです。ありがとうございました。
テント内で勉強中
奨学金授与対象の孤児(パラス村)
調査に協力してくれた小学校の先生(パラス村)
【12月28日】
 朝早く、宿泊していたマンセラ(バラコットの30キロ手前)のホテルを出てイスラマバードに向かう。途中、タキシラの遺跡を見学していく。ここは今から1500年ほど前にガンダーラ仏教の聖地として栄えた。かつては仏教を学ぶ大学や、にぎわうバザールの町並みがあったのだが、すっかり寂れ果て、石組みの遺構だけが残っている。僕は遺跡を見学するのはとても好きだが、いつも人間の生のはかなさを感じずにはいられない。栄枯盛衰。僕たちは今生きている世界が未来永劫続くものと思い込んでいるけど、歴史がそれはないことを証明している。しかし、だからこそ、逆のこともいえる。パキスタン北部の被災地に暮らす人は本当にたいへんな思いをしている。でも、未来永劫、この暮らしが続くわけではない。そこに僕は人間の可能性と未来を描くことができると思う。イスラマバードでは、今回の旅のためにジープを用意してくださったナジール・サビール・エクスペディション社のスルタンさんにお礼の挨拶にうかがった。この会社は主に、カラコルムの登山やトレッキングの手配を行なっていて、僕とも古い付き合いだ。パキスタンは意外に知られていないのだが、ヒマラヤと並ぶ世界の高峰の宝庫である。登山家やクライマーにとっては、パキスタンという国に対して一般的な人が抱くネガティブなイメージとは裏腹に、実は身近な国でもあるのだ。僕もこれまでの登山やトレッキングの旅では、パキスタンの人たちにはずいぶんとお世話になってきた。たいしたことはできないが、自分のできる範囲で、これからも支援を続けていきたいと思っている。ラワル・ピンディに宿を取った後、中心地のバザールに出かけた。お土産を買ったり、ぶらぶら歩きを楽しむ。さすがに緊迫した(?)被災地への旅だったせいか、ここに来てどっと疲れが出ている方もおられるように見えた。

タキシラの遺跡
【12月29日】
 朝早く、インドとの国境が近いラホールへ向かう。5時間後、ラホール空港到着。長いようで短かったパキスタンのスタディ・ツアーをここで終える。皆さん、本当にお疲れ様でした。
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